学校に通わなくてはいけない(特に義務教育は)という建前と現実がある。だからこそ不登校問題が立ち上がる。では、そもそも学校に通う必要があるのだろうか? 学校に通ってなんになるのだろう? 利点は? これは学校の存在・形而上学的な問題になる。

学校とは子供、青年といったまだ自己が確立されていない人が通うのが基本だ。だから学ぶ、経験する。結局、社会に出るための訓練所なのだ。言葉の読み書き、話し方、いろんなことを知ること、たくさんの経験、友達との交流、様々な種類の人間を知り、もまれる。試験という試練。我慢を覚える。協調性を覚える。社会性を身につける。だから社会でもやっていけるようになる。

不登校になるということは、その経験が大幅に制限されると言うことである。いまはフリースクールが、学校の代替として存在しているとはいえ、まだまだ文部科学省が認めている学校との差は大きい。社会的認知も天と地の差がある。人を評価する上でどの学校を出たのかと言うことは、大きなファクターだ。中学も満足に出ていないとなると、一般論で言うと人は高い評価を下すことはない。不登校を経験した子供、青年にとって、非常に行きにくい世の中である。親の立場からも、だからこそ学校に行って欲しいと尻をひっぱたくのだ。大学を出るとつぶしがきくという。職業選択の幅が広がる。高校卒業でもそれが狭まるが、不登校の子に比べるとつぶしがきく。

悲しいかな、現在の日本のシステム(先進国ならみなそうだろう)は、学校に通って、卒業した方が有利なのである。では一度ドロップアウトしてしまった子供は巻き返しが効くのかという問題になる。理想はそれが誰でも可能な社会システムにすべきだろう。が、現実を述べなければならない。社会はそれほど心が広くはないし、不登校やひきこもり、ニートの人に機会のバリアフリーを与えるほど余裕がない。社会は不公平であり、偏見と差別に満ちている。その中で生きなければならない。それが嫌だ、変えなければいけないのはもちろんだ。常にそう言う機会の平等を要求していくべきだ。しかし現実のことも同時に考えなければならない。それだから、親は子供の不登校問題に気を病んでしまい、自身がノイローゼになってしまうのだ。愛する子供のことなら神経がすり減らされるのは当たり前だろう。

現状では、学校に通った方が有利だ。仮に不登校になったとしても、積極的不登校に転換できるなら、かまわないだろう。夢と希望に燃えて目標に進んでいける人間をとことん妨害するほど社会は冷酷でもない。障害がないとは言わないが(結局荒波にも負けない当人の意志の問題となるだろう)

学校に通った人と、不登校に陥った人と、どの部分が一番大きな差なのか? 多くの取材でほとんどの人が述べていたのが、経験の差だ。そして負い目と自信喪失というマイナス面を背負いやすいと言うこと。学校に通ってもいろんな苦しいことがある。しかし不登校のそれは、経験ができないからなおさら深刻である。一番感じやすい年頃なだけに、ずっと部屋に引き籠もったり、鬱屈がたまって攻撃的になったり、様々な心理的弊害が起こる。

経験の差は、社会に不登校を経験した子供が出たとしても、周りと比較してしまい、さらに自信がなくなることにつながる。そこで周りとの差を埋めるために頑張れる人ならいいが、現実は、そういうパワーや元気を得る経験がないために、落ち込んでしまう人が多いのだ。