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学校に通わないという選択

不登校は悪でもないし恥でもない。今は様々な選択肢がある。学校に通うことが果たして立派なことで、正義なのだろうか? 集団の中で、組織の中で強調して生きるのが人生でもないし、やりたいことがあれば不登校は問題はない。中卒の人、中学も満足に行かなかった人でも社会で成功している人、成功した人はいくらでもいる。逆に人と同じ歩調をとることが成功の芽を摘んでしまう可能性もある。人と同じ人生を歩むことが果たして幸せなのか? それが小学生・中学生の時から違う道を歩んでどこが悪い? 未来への希望と可能性は学校に通わないという選択で無限に広がるのだ。ここまでは理想論として書いた。実際この通りの人生を歩み、不登校問題が問題じゃなく、逆にバネにした人、成功した人がたしかにいることはいる。しかし、である。もう一つこんな意見が多い。学校すら満足に通えなくて、海千山千の社会でどうして成功できる? 誰だって苦しいことは苦しい。眠いし、勉強はめんどくさいし、対人的なトラブルばっかりで、学校に行きたくないのは誰でも経験している。おもしろいと心から思っている奴なんてほとんどいない。でもみんな頑張って学校に通って、卒業しているんだ。そんな意見である。結局、不登校には積極的不登校と消極的不登校に分けられるだろう。その差はどこで分けられるだろう。積極的不登校には夢と希望と目標がある。消極的不登校は絶望とだるさと不安と恐怖と心の落ち込みに支配されたものだと言える。時期でも分けられるだろう。高校生になると、すでに自分なりの道、可能性、自発的な意志というものが確立されつつあり、そのときに不登校になったとしても、いくらでも夢や目標という代替が効くのである。しかし中学生、もっと下の小学生ともなると、そこ子供が不登校になったとき、積極的な理由は見いだしにくい(よっぽど特別な例をのぞいてである)。この時期に不登校になると子供がひきこもりの問題に発展していく可能性が高いデータが出ている。

消極的不登校でもたくさんの受け皿が今は用意されつつある。フリースクールという選択肢である。うまくここで子供が自信を回復し、元気になってくれればいいのだが、学校の代替として終わるケースが多い。つまり夢と希望が子供が感じることができない限り、どんな形態のスクールでも五十歩百歩になってしまう。子供が学校をドロップアウトせざるを得ない場合、その喪失感は計り知れないものがある。想像する以上に大きいものだ。自分で自分の可能性を非常に限定してしまう。負い目を感じて生きなければいけない。多くの親は学校に行きなさいと子供をせき立てる。一方で学校に通わなくていいという「理解のある」親も増えてきている。不登校に子供にとっては後者の方がいい親である。プレッシャーからはとりあえず解放され、ホッとできるという。しかし、積極的不登校に転換できない限り、つまり自分なりの夢と目標をもち、希望を感じて生きられない限り、社会に出たときの出遅れでまた悩んでしまうというパターンが非常に多い。

学校に通わないという選択は、子供が学校生活で失った夢や希望、そして自信喪失を社会に出るまでに取り戻させる猶予期間を与えるにすぎないのだ。不登校問題は、学校を通う、通わない、通えないという限定された問題でしばしば語られがちだが、もっと先の社会という長いスパンでものを考えなければならないだろう。つまるところ、不登校問題の到達点は、社会で子供が自分を発揮できるか、できないか、潰されるか、ちゃんとやっていけるかにつきるのだ。親も一番そこが心配であり不安なのだ。それが可能なら、不登校問題は、もう「問題」ではなくなる。現実はそれができないから大問題なのだ。

不登校の受け入れ施設・支援施設・サポートする人が、不登校児の数とともに増えている。しかし、不登校問題としてとらえるのではなく、当事者の未来まで見据えて効果的に支えて欲しいと願う。